卒業式が3つ、入学式が3つ。
小学校卒業の次女が中学入学。
中学校卒業の長女が高校入学。
高校卒業の長男が大学入学。
ただ親が、卒業・入学が重なったといって慌てているだけ。
子にとってみれば、一人ひとりが二度とない卒業と入学。
自分もそうして卒業と入学を繰り返してきたはず。
ふと考える。
「親」に入学したのはいつだったか。
卒業はあるのかと。
妻の妊娠から親になることを考え始めたとすれば、そこが入学準備だろうか。
子が生まれて親の一年生だとすれば、親の卒業は。
子が成人したら卒業、社会人になったら卒業ということではなさそうだ。
死ぬまで親だ。いや死んでも子どもたちにとっては親か。
さて。
仏教に入門するというのはいつのことか。
果たして入門しているのか。知らず知らずにその門の内にいたのか。
たとえ寺に生まれたとしても、もしかすると門外か。
入門したとすれば、そこから出門するということがあるのか。
阿弥陀さまを"み親"といただく仏門の教えをいただく。
ほんとうの親とは。
その仕事、役割は何であったかと。
そう思えば、親だと思っているが親の勤めを果たしているのか。
やっているのはただ社会的な"保護責任者"の任を果たしているだけなような気がする。
よくご門徒の葬儀で、
今生での親の仕事を終えられて、いま諸仏の勤めに就かれておられる
などとお伝えすることがある。
子が親の死に際して、阿弥陀さまの尊前に親の棺を安置し、手を合わせてお念仏するならば。
その親はただの保護責任者でなく、まぎれもなく親だったと言うことができるのではないか。
ただ皆が皆、親が先に逝くわけでない。
故人が諸仏の位に就くというのは、ほんとうの"み親"のところに還られたということか。
出門があるかどうかはわかりませんが、"み親"のところに還るということが、ひとつ人の卒業としてあるのかと。
卒業式まで頑張らないと。
ん?卒業の準備となると、それは娑婆でいう終活か。
終活というとちょっと違うか。
娑婆は此岸。
"み親"のまします彼岸をたずねる法要を勤めます。
娑婆の卒業準備か、彼岸の入学準備か、はたまた終活か。
とにかく、ご門徒の皆さまに彼岸会のご案内でございます。
ご参詣をお待ちしております。
]]>卒業式が3つ、入学式が3つ。
小学校卒業の次女が中学入学。
中学校卒業の長女が高校入学。
高校卒業の長男が大学入学。
ただ親が、卒業・入学が重なったといって慌てているだけ。
子にとってみれば、一人ひとりが二度とない卒業と入学。
自分もそうして卒業と入学を繰り返してきたはず。
ふと考える。
「親」に入学したのはいつだったか。
卒業はあるのかと。
妻の妊娠から親になることを考え始めたとすれば、そこが入学準備だろうか。
子が生まれて親の一年生だとすれば、親の卒業は。
子が成人したら卒業、社会人になったら卒業ということではなさそうだ。
死ぬまで親だ。いや死んでも子どもたちにとっては親か。
さて。
仏教に入門するというのはいつのことか。
果たして入門しているのか。知らず知らずにその門の内にいたのか。
たとえ寺に生まれたとしても、もしかすると門外か。
入門したとすれば、そこから出門するということがあるのか。
阿弥陀さまを"み親"といただく仏門の教えをいただく。
ほんとうの親とは。
その仕事、役割は何であったかと。
そう思えば、親だと思っているが親の勤めを果たしているのか。
やっているのはただ社会的な"保護責任者"の任を果たしているだけなような気がする。
よくご門徒の葬儀で、
今生での親の仕事を終えられて、いま諸仏の勤めに就かれておられる
などとお伝えすることがある。
子が親の死に際して、阿弥陀さまの尊前に親の棺を安置し、手を合わせてお念仏するならば。
その親はただの保護責任者でなく、まぎれもなく親だったと言うことができるのではないか。
ただ皆が皆、親が先に逝くわけでない。
故人が諸仏の位に就くというのは、ほんとうの"み親"のところに還られたということか。
出門があるかどうかはわかりませんが、"み親"のところに還るということが、ひとつ人の卒業としてあるのかと。
卒業式まで頑張らないと。
ん?卒業の準備となると、それは娑婆でいう終活か。
終活というとちょっと違うか。
娑婆は此岸。
"み親"のまします彼岸をたずねる法要を勤めます。
娑婆の卒業準備か、彼岸の入学準備か、はたまた終活か。
とにかく、ご門徒の皆さまに彼岸会のご案内でございます。
ご参詣をお待ちしております。
]]>例年通り下記の通り春季彼岸会永代経法要を厳修致します。本年も宮部先生をお迎えの予定です。定願寺の門徒の方もご近所の方もどなたでも参拝いただけます。皆様の来院をお待ちしています。
日時 3月23日(土) 午後2時 午後7時
場所 小丘山 定願寺
お問い合わせ 06−6758−1684
また、明日3月13日より15日まで春の法務休暇となります。大変ご迷惑をおかけ致しますがよろしくお願い致します。
]]>正信と迷信
真実と虚偽
迷った挙句にこのような表現になりました。
お彼岸月の掲示板です。
彼の岸と此の岸。
彼岸は此岸の対岸。
彼岸は仏の世界。此岸は人の世界。
彼岸は仏の悟りを表し、此岸は私の迷いを表しているといってもいいでしょうか。
偽りと迷信に満ちた世界に迷う私の発見は、真と正信の仏の境地によって教えられる。
迷子はいま自分がどこにいるかわからないから迷子なのだ。
そうとも知らぬ私が、彼岸の世界に照らされてようやく迷路を知るのかと。
よろずのこと みなもって そらごとたわごと まことあることなきに
ただ念仏のみぞまことにておわします
歎異抄
真実によって、真実でないことが明らかになる。
]]>正信と迷信
真実と虚偽
迷った挙句にこのような表現になりました。
お彼岸月の掲示板です。
彼の岸と此の岸。
彼岸は此岸の対岸。
彼岸は仏の世界。此岸は人の世界。
彼岸は仏の悟りを表し、此岸は私の迷いを表しているといってもいいでしょうか。
偽りと迷信に満ちた世界に迷う私の発見は、真と正信の仏の境地によって教えられる。
迷子はいま自分がどこにいるかわからないから迷子なのだ。
そうとも知らぬ私が、彼岸の世界に照らされてようやく迷路を知るのかと。
よろずのこと みなもって そらごとたわごと まことあることなきに
ただ念仏のみぞまことにておわします
歎異抄
真実によって、真実でないことが明らかになる。
]]>真宗文庫『31の味わい お寺の掲示板』東本願寺出版
https://books.higashihonganji.or.jp/
今月発行された文庫本に文章を載せていただいたのでコマーシャル。
新刊とはいっても私の文章の内容は、2010年に発行された『今日のことば』の随想がそのまま掲載されています。
かれこれ15年も前の文章を読み返すとお恥ずかしいところもございますが。
出版にあたって、膨大なアーカイブの中から、どなたが、どんないきさつでピックアップされたのかは存じませんが、とにかく掘り出していただきありがとうございます。
発行のお礼状とともに、出来上がった文庫本を贈呈いただきました。
ページをめくりながら編集作業を想像してみる。
真宗仏教を味わう上で欠かせない法語の選出・選択が前提にあるのでしょう。
ですから随想の文章より、むしろ31の法語を手がかりに、その法語に出あった一人ひとりが味わいを深めてほしいと。
そんな編集者の願いを思いました。
どうか手にとってご味読いただけるならば幸いでございます。
ところで、出典の『今日のことば』は、法語カレンダーの随想集として毎年発行されています。
発行される随想集は、翌年のカレンダーに掲載される法語に基づいて執筆されます。
2010年に発行された『今日のことば』は、2011年のカレンダーの法語についての文章。
どうして自分が書くことになったのかもよく覚えていませんが。
当時のメモにあるのは、「解説でなく随想」という一言。
エピソードを顧みながら、随想に登場したおばあちゃんの逝去から15年か、と。
お孫さんは私と同級生だし、ひ孫さんは長女と同級生。
来月の高校入試に向けて近所の図書館で切磋琢磨。
私も子どもたちも、ずっとお育ての中にいることをいま、改めて随想しながら。
]]>真宗文庫『31の味わい お寺の掲示板』東本願寺出版
https://books.higashihonganji.or.jp/
今月発行された文庫本に文章を載せていただいたのでコマーシャル。
新刊とはいっても私の文章の内容は、2010年に発行された『今日のことば』の随想がそのまま掲載されています。
かれこれ15年も前の文章を読み返すとお恥ずかしいところもございますが。
出版にあたって、膨大なアーカイブの中から、どなたが、どんないきさつでピックアップされたのかは存じませんが、とにかく掘り出していただきありがとうございます。
発行のお礼状とともに、出来上がった文庫本を贈呈いただきました。
ページをめくりながら編集作業を想像してみる。
真宗仏教を味わう上で欠かせない法語の選出・選択が前提にあるのでしょう。
ですから随想の文章より、むしろ31の法語を手がかりに、その法語に出あった一人ひとりが味わいを深めてほしいと。
そんな編集者の願いを思いました。
どうか手にとってご味読いただけるならば幸いでございます。
ところで、出典の『今日のことば』は、法語カレンダーの随想集として毎年発行されています。
発行される随想集は、翌年のカレンダーに掲載される法語に基づいて執筆されます。
2010年に発行された『今日のことば』は、2011年のカレンダーの法語についての文章。
どうして自分が書くことになったのかもよく覚えていませんが。
当時のメモにあるのは、「解説でなく随想」という一言。
エピソードを顧みながら、随想に登場したおばあちゃんの逝去から15年か、と。
お孫さんは私と同級生だし、ひ孫さんは長女と同級生。
来月の高校入試に向けて近所の図書館で切磋琢磨。
私も子どもたちも、ずっとお育ての中にいることをいま、改めて随想しながら。
]]>旧いこいの家(巽南会館)から定願寺に移転するお地蔵さまの御移徒法要の日程が決まりました。
2024年3月31日 午前10時より受付開始 午前10時30分より法要を開始します。これ以降どなた様もお参りいただけるようになります。
本日、防水塗料を塗っていただき今後は電気工事とカーポート的な屋根を設置して行く予定になっています。
いよいよお迎えする日が近づいて来ました♪
]]>本年も皆様と共に、仏法聴聞させていただくことを楽しみにしております。
ご家族、ご友人など、お誘い合わせの上ご参加くださいますようご案内申しあげます。
]]>
お地蔵さまの台座になる基礎工事も随分と進み、ほこらの洗いと詳細な電気工事を残すのみとなってきました。今月中旬にはお地蔵さまを迎える為の法要、御移徒法要の打ち合わせをすることになっています。まだもう少し準備が必要となりますが、住職もお地蔵さまをお迎えするのが本当に楽しみです!
また、能登半島地震の災害救援金ですが、こちらも沢山の方にご協力を賜りお参りの時にも預かってお願いしますとお気持ちを預かっています。いったんお賽銭箱に入れさせてもらい、十二月頃にまとめて寄付させていただこうと思っています。
最近、Facebookの方で1月に送金しました金沢支援ネットワークの様子が公開されています。https://www.facebook.com/Kanazawa.shien.net
大阪に住んでいると忘れがちになりやすいです。沢山の方の応援がまだまだ必要だと思っています。お寺に来られた際には是非暖かいご支援を賜りますようお願い申し上げます。
]]>法話では「ケガレ」についての問題提起をいただきました。
私の中に巣喰うその感覚、意識。
いや、それが感覚されていない、意識されていないところの問題か。
その余韻の中で。
2月。
様々な節分の催事をいかに心得るか。
余道に事うることを得ざれ 天を拝することを得ざれ
鬼神を祠ることを得ざれ 吉良日を視ることを得ざれ
顕浄土方便化身土文類六 愚禿釈親鸞集
と掲示板に貼り出しました。
天神地祇も有情であり、救いに与る存在。
その迷える有情を拝み、そこに救いを求めるならば。
何が私に植えつけられるのか。
私の何がかすめとられるのか。
節分。
節わけ。
私の心に取り憑く「節」を見分ける智慧。
悲しきかなや道俗の 良時吉日えらばしめ
天神地祇をあがめつつ 卜占祭祀つとめとす
親鸞聖人『愚禿悲嘆述懐和讃』
私の何に仏の大悲がかけられているのか。
私のどんな姿を憐れんでおられるというのか。
報恩講の余韻を憶いながら来年の報恩講に向けて。
念仏者は、無碍の一道なり。
そのいわれいかんとならば、
信心の行者には、天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし。
罪悪も業報を感ずることあたわず、諸善もおよぶことなきゆえに、
無碍の一道なりと云々
『歎異抄』
何が福で、誰が鬼か。
]]>法話では「ケガレ」についての問題提起をいただきました。
私の中に巣喰うその感覚、意識。
いや、それが感覚されていない、意識されていないところの問題か。
その余韻の中で。
2月。
様々な節分の催事をいかに心得るか。
余道に事うることを得ざれ 天を拝することを得ざれ
鬼神を祠ることを得ざれ 吉良日を視ることを得ざれ
顕浄土方便化身土文類六 愚禿釈親鸞集
と掲示板に貼り出しました。
天神地祇も有情であり、救いに与る存在。
その迷える有情を拝み、そこに救いを求めるならば。
何が私に植えつけられるのか。
私の何がかすめとられるのか。
節分。
節わけ。
私の心に取り憑く「節」を見分ける智慧。
悲しきかなや道俗の 良時吉日えらばしめ
天神地祇をあがめつつ 卜占祭祀つとめとす
親鸞聖人『愚禿悲嘆述懐和讃』
私の何に仏の大悲がかけられているのか。
私のどんな姿を憐れんでおられるというのか。
報恩講の余韻を憶いながら来年の報恩講に向けて。
念仏者は、無碍の一道なり。
そのいわれいかんとならば、
信心の行者には、天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし。
罪悪も業報を感ずることあたわず、諸善もおよぶことなきゆえに、
無碍の一道なりと云々
『歎異抄』
何が福で、誰が鬼か。
]]>世話人の皆さまに“骨を折って”いただきました。
報恩講のクライマックスは恩徳讃。
如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
骨をくだきても謝すべし
と。
ひょんなことから今、平野修さんの『生きるということ』を家族で輪読中なのですが。
東本願寺出版 同朋選書 https://higashihonganji-shuppan.jp
そこに、「身を粉にする」とか「骨をくだく」は人間が苦労することを表している、と。
「身を粉にする」「骨を砕く」には、「いのち懸け」のイメージがあります。
如来大悲の恩徳、師主知識の恩徳に命を捧げるんだという強烈な信仰表明。
そんなふうに聞こえて、なかなかそんな信心深くはなれんな、と思ってきました。
いやいやそんな大袈裟なこといわんでも、もう少し身近に考えてみなさいよ、と。
「人間の苦労」といっても様々ですから、当然いのちを懸けてきたようなご苦労もあるわけです。
が、人が生きる上でのありとあらゆるご苦労が、“おみがき”に象徴されているのではないかと。
お寺に来てくださる世話人さんはみんな元気です。
とはいえ、いわゆる後期高齢者といわれるご老体。
本堂の重い仏具を運んでおられるのを見ると、まさに骨が砕けるのではないかと。
身を粉にして働いてきた、骨を砕いて生きてきたという苦労が皆さんにはおありになる。
平野さんは、恩徳讃の「凄さ」について、
生きるのは大変だったんだという感想ではなしに、そこに感動が語られている
と。
苦労に苦労を重ねて死んでいかなければならないという嘆きでなく。
恩に報いるとか、謝するという言葉でそこに感動が語られている、と。
「骨折り損のくたびれ儲け」で終わるのでなく、感動をいただいていく。
支度、準備から円成に至る過程がただの「面倒」に終わらない大事としての伝統。
なるほど真宗門徒の生活は、報恩講にはじまり、報恩講にくれていくのだ、と。
報恩講にくれて、報恩講にはじまっていくのかもしれない。
今年も無事に骨折などの事故なく報恩講の荘厳を整えていただきました。
物理的なお荘厳が整った。あとは住職のモチベーションか。
お荘厳について。
『生きるということ』の中で平野先生は、「功徳荘厳」という言葉を提起されています。
「功徳」は「属性」を意味する。
功徳という言葉で人間を問題にするとき、人間の持っている性質、また働きを「功徳」と。
「荘厳」はデコレーション、「飾る」という意味と同時に、「置換・位置」という意味。
荘厳は「秩序」という意味に展開される、と。
さて、週末までに読みすすめて、報恩講に挑んでまいりたいと思います。
本堂内に能登半島地震の救援金箱を設置させていただきました。
何もできないもどかしさのまま。
宗派内では600を超える寺院の被害状況が報告されてきています。
お参りの折にご協力くださいますようお願いします。
]]>
世話人の皆さまに“骨を折って”いただきました。
報恩講のクライマックスは恩徳讃。
如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
骨をくだきても謝すべし
と。
ひょんなことから今、平野修さんの『生きるということ』を家族で輪読中なのですが。
東本願寺出版 同朋選書 https://higashihonganji-shuppan.jp
そこに、「身を粉にする」とか「骨をくだく」は人間が苦労することを表している、と。
「身を粉にする」「骨を砕く」には、「いのち懸け」のイメージがあります。
如来大悲の恩徳、師主知識の恩徳に命を捧げるんだという強烈な信仰表明。
そんなふうに聞こえて、なかなかそんな信心深くはなれんな、と思ってきました。
いやいやそんな大袈裟なこといわんでも、もう少し身近に考えてみなさいよ、と。
「人間の苦労」といっても様々ですから、当然いのちを懸けてきたようなご苦労もあるわけです。
が、人が生きる上でのありとあらゆるご苦労が、“おみがき”に象徴されているのではないかと。
お寺に来てくださる世話人さんはみんな元気です。
とはいえ、いわゆる後期高齢者といわれるご老体。
本堂の重い仏具を運んでおられるのを見ると、まさに骨が砕けるのではないかと。
身を粉にして働いてきた、骨を砕いて生きてきたという苦労が皆さんにはおありになる。
平野さんは、恩徳讃の「凄さ」について、
生きるのは大変だったんだという感想ではなしに、そこに感動が語られている
と。
苦労に苦労を重ねて死んでいかなければならないという嘆きでなく。
恩に報いるとか、謝するという言葉でそこに感動が語られている、と。
「骨折り損のくたびれ儲け」で終わるのでなく、感動をいただいていく。
支度、準備から円成に至る過程がただの「面倒」に終わらない大事としての伝統。
なるほど真宗門徒の生活は、報恩講にはじまり、報恩講にくれていくのだ、と。
報恩講にくれて、報恩講にはじまっていくのかもしれない。
今年も無事に骨折などの事故なく報恩講の荘厳を整えていただきました。
物理的なお荘厳が整った。あとは住職のモチベーションか。
お荘厳について。
『生きるということ』の中で平野先生は、「功徳荘厳」という言葉を提起されています。
「功徳」は「属性」を意味する。
功徳という言葉で人間を問題にするとき、人間の持っている性質、また働きを「功徳」と。
「荘厳」はデコレーション、「飾る」という意味と同時に、「置換・位置」という意味。
荘厳は「秩序」という意味に展開される、と。
さて、週末までに読みすすめて、報恩講に挑んでまいりたいと思います。
本堂内に能登半島地震の救援金箱を設置させていただきました。
何もできないもどかしさのまま。
宗派内では600を超える寺院の被害状況が報告されてきています。
お参りの折にご協力くださいますようお願いします。
]]>
昨年末にご門徒の皆さまにお送りした寺報をホームページにアップ。
「宗教はヤバい?」とか。
少しでも関心を寄せていただければ、という見出し。
反響は、まだない。
なかなかまとまらない文章ですが、「ヤバい」のは念仏を忘れることだ、と。
さて、正月、能登に帰省中に被災された方が語ってくれました。
いつ倒壊するかわからない本堂からご本尊をなんとか運び出した。
余震の中、庫裡に仮安置するわけにもいかず。
車のトランクに避難させている、と。
ご門徒宅のお内仏(お仏壇)もしかりか。
ほとけさまに手を合わせてきた場とカタチを取り戻すには。
いや取り戻すことができるのか。
先のことを見通す余裕など今はない。
しかれども。
本尊は像だけではない。
姿・形だけでなく「なみあみだぶつ」という言葉となり、音にまでなったほとけさま。
たとえそこに形がなくとも。
「なむあみだぶつ」と現れ出てくださるご本尊。
他人事、余所事ではなく。
おねんぶつを忘れないよう声にしたいと思います。
いや私が称えるのでなく、ほとけさまが声となって出てきてくださるのだ、と。
なむあみだぶつ
]]>昨年末にご門徒の皆さまにお送りした寺報をホームページにアップ。
「宗教はヤバい?」とか。
少しでも関心を寄せていただければ、という見出し。
反響は、まだない。
なかなかまとまらない文章ですが、「ヤバい」のは念仏を忘れることだ、と。
さて、正月、能登に帰省中に被災された方が語ってくれました。
いつ倒壊するかわからない本堂からご本尊をなんとか運び出した。
余震の中、庫裡に仮安置するわけにもいかず。
車のトランクに避難させている、と。
ご門徒宅のお内仏(お仏壇)もしかりか。
ほとけさまに手を合わせてきた場とカタチを取り戻すには。
いや取り戻すことができるのか。
先のことを見通す余裕など今はない。
しかれども。
本尊は像だけではない。
姿・形だけでなく「なみあみだぶつ」という言葉となり、音にまでなったほとけさま。
たとえそこに形がなくとも。
「なむあみだぶつ」と現れ出てくださるご本尊。
他人事、余所事ではなく。
おねんぶつを忘れないよう声にしたいと思います。
いや私が称えるのでなく、ほとけさまが声となって出てきてくださるのだ、と。
なむあみだぶつ
]]> 境内と本堂において災害救援金箱を設置しました。
救援金は真宗大谷派東本願寺を通じて能登半島地震被災の復興に使われます。
お寺に来られた際には是非暖かいご支援を賜りますようお願い申し上げます。
新型コロナウイルスの感染症拡大の騒ぎもようやく落ち着きを取り戻してきました。感染拡大の間、様々な対応を余儀なくされ思うような報恩講が勤められませんでした。しかし、その反面考え直すべき事柄についてワンポーズとれたのは大きな収穫だったように思います。考えてみれば、コロナウイルスの感染拡大によって、私たちの有り様を顧みて見直すタイミングとしては最適だったなと振り返って思います。
この機会に本来「すべきこと」と「すべきではないこと」を見定めた再出発をしたい。とは思っていましたが、そこは伝統社会(お寺)の難しいところ。
もしこれが一般企業であれば「こうやればいいんじゃない?」とスムーズに事が運ぶと思いますが、それが簡単にいかないのが伝統というものです。しかし逆からみれば、だからこそ良いとも言えることが多いのも事実です。その点は忘れてはならない事だと思います。
ということで、前振りが長くなりました。
今回の御例会において、それほど多くはありませんし大きな見直しではありませんが、現状(少子高齢化など)から出来ることを
の幾つか改良しました。
1、年間の「おみがき」(仏具みがき奉仕)の回数の改訂
2、法要日程と内容の見直し
3、報恩講でお手伝いいただく方のお斎の見直し
報恩講は親鸞聖人の祥月命日を機縁として念仏の教えに出遇う御仏事ですが、私たちにとって親鸞聖人という存在はどのようなものであるのか、または親鸞聖人の生涯が、現代を生きる我々にとってどのような意味を持つか。その問いを訪ねる真宗門徒にとって最も重要な御仏事です。これから、門徒と一緒に報恩講をお勤めいたしますが、この仏事が「一人(いちにん)の報恩講である」とともに、報恩ということを深くいただくご縁となればいいのではないかと思います。
※1 講(こう)・・・・・相続講と呼ばれるお寺の組織。
宗門とお寺を支える聞法を中心とした寄合。全国の大谷派寺院で明治の頃始まった仕組み。
※2 講頭(こうがしら)・・・講を取り仕切るリーダーで、お寺と地域御門徒の連携をはかるパイプ役。
]]>
1月22日から28日までの一週間、「報恩講」がつとまります。
どなたもお参りください。
昔は何もなかったが、何かがあった。
今は何でもあるが、何かが足りない。
報恩講の時節になりました。本年も皆さまと聞法に励みたいと思います。昔から真宗門徒は「親の法事より報恩講、親の法事も報恩講」・「報恩講に参るのが真宗門徒」と言われるほど、報恩講を大切にする気風がありました。
原爆以前の長崎では、報恩講の時期になると商店も軒並み休業するほどお寺は賑わった、と言われています。その後の復興により、生活が安定するとその光景は一変したと聞いています。しかし、どんなに便利になり生活が豊かになろうとも、それらが人生の空虚さの解決にはなりません。親鸞聖人の教えは、そのような私たちに「だからこそ、道を訪ねていこう」と背中を押してくださるのでしょう。どうか次世代の念仏者も誘って、お寺の法要にお参詣くだいますよう、ご案内申し上げます。
なお、定願寺は工事には関係なく通常法務でございます。大変ご迷惑をお掛けしますがよろしくお願いいたします。合掌
]]>定願寺では、今年度のお賽銭箱の浄財の全てを災害救援金として募金をしたいと思っております。皆様の温かいご支援を賜りますよう何卒お願い申し上げます。
なお、過去数年分の浄財の全てを真宗大谷派金沢災害支援ネットワークの方に募金をしました。買い出し可能な金沢の方が炊き出しや現地で直接必要な物資を届けてくださるために使用されます。
沢山の方が手を合わせられた思いが届きますように。合掌
]]>先の人が撞いた音が消えてから次の人は撞いてください、と。
かつてはお一人おひとりご案内をさせていただいておりましたが。
終盤の乱れ打ち。
ご近所の皆さまにはあたたかいご理解をいただいております。
お参りの皆さまにはようこそのお参りでございました。
さて、常照寺の鐘は煩悩を取り払う効果はございませんと、毎年申し上げております。
暮れに、ある先生が除夜の鐘についてSNSに「親鸞聖人は「不断煩悩得涅槃」と説いておられますが・・」とコメントされておられました。
「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」という念仏の利益を鐘の音に聞かせていただく。
乱れ打ちでご利益を掻き消して、念仏の教えをちゃんと聞いていないなという私を知らしめられつつの修正会。
正月の掲示板に
智慧の光明はかりなし
讃阿弥陀仏偈和讃
愚禿親鸞作
と掲げさせていただきました。
昨年末に
人間は闇の自覚なしに、光の自覚があろうはずがない
と高光大船先生の言葉を掲げさせていただきましたが、この流れ。
人間の闇を知るはたらきが、お釈迦さまのお悟りと捉え、その内実が「真実の智恵(光)」と。
親鸞聖人は、智慧の光明は”はかりない”との仰せ。
逆に、はかりなき光明が照らし出すのは、極まりのない人間の闇の深さか。
高光先生は「加賀の三羽烏」と呼ばれた北陸の僧だと。
北陸の地には所縁の寺も多い。真宗門徒も。
元日の大地震。
倒壊した寺の映像を見ながら。
お年賀をくださったあの寺は。
あのご住職とご家族は。
ご門徒の皆さんは、と。
宗派でも、支援の呼びかけがはじまっています。
]]>先の人が撞いた音が消えてから次の人は撞いてください、と。
かつてはお一人おひとりご案内をさせていただいておりましたが。
終盤の乱れ打ち。
ご近所の皆さまにはあたたかいご理解をいただいております。
お参りの皆さまにはようこそのお参りでございました。
さて、常照寺の鐘は煩悩を取り払う効果はございませんと、毎年申し上げております。
暮れに、ある先生が除夜の鐘についてSNSに「親鸞聖人は「不断煩悩得涅槃」と説いておられますが・・」とコメントされておられました。
「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」という念仏の利益を鐘の音に聞かせていただく。
乱れ打ちでご利益を掻き消して、念仏の教えをちゃんと聞いていないなという私を知らしめられつつの修正会。
正月の掲示板に
智慧の光明はかりなし
讃阿弥陀仏偈和讃
愚禿親鸞作
と掲げさせていただきました。
昨年末に
人間は闇の自覚なしに、光の自覚があろうはずがない
と高光大船先生の言葉を掲げさせていただきましたが、この流れ。
人間の闇を知るはたらきが、お釈迦さまのお悟りと捉え、その内実が「真実の智恵(光)」と。
親鸞聖人は、智慧の光明は”はかりない”との仰せ。
逆に、はかりなき光明が照らし出すのは、極まりのない人間の闇の深さか。
高光先生は「加賀の三羽烏」と呼ばれた北陸の僧だと。
北陸の地には所縁の寺も多い。真宗門徒も。
元日の大地震。
倒壊した寺の映像を見ながら。
お年賀をくださったあの寺は。
あのご住職とご家族は。
ご門徒の皆さんは、と。
宗派でも、支援の呼びかけがはじまっています。
]]>新年あけましておめでとうございます
本年もどうぞ宜しくお願いいたします
本日 11時と14時より修正会が勤まります。是非ご家族皆さまでお参りください
合掌
]]>
昨年7月に輪番を拝命してからというもの、日々多くの方とお出会いする中で、法要や法座だけでなく様々な出来事を通じ、本当に色々と良い刺激をいただいています。人と人とのつながり、関わりの中に身を置かせていただくことの温かさ、しんどさ、面白さ。決して平坦ではありませんが、とても大切な場をお預かりしていると感じています。
院内でも、職員と日々様々なことについて話し合います。
それぞれが何を見てどう考えているのか、互いに言葉を尽くすのです。
ある時私が「仲間」という言葉を使うと、必ず「輪番さん、違いますよ。友達ですよ」という職員がいました。最初のうちは「そう?わかった」と述べ「友達」と言い換えていましたが、何回も指摘され続けているうちに、だんだんとそのことが私にとっても課題になっていきました。
本人に尋ねても「だって違うじゃないですか」とニコニコするばかりです。
「仲間作りは仲間はずれを作る」と聞いたことはありましたが、彼が「仲間」の何にひっかかっているのか釈然としませんでした。
10月にあるお寺でのご法話にお招きいただいた際、そこのご住職にご相談申しあげましたところ「悲しいけれど仲間には手枷足枷がはまる」そして「仲間は仲間でいる間は仲間だが、条件が変われば仲間はずれになる」とお話しくださいました。
「仲間」は決して悪い言葉ではありませんが、この場合は仲間でいるためにルールや空気で「顔色を窺って」繋がるのが「仲間」。互いに尊重し合う「気遣い」はあるものの、きちんと話し合うことができて、一人の人間として関わり続けることができるのが「友達」だと受け止めました。仲間は仲間でいるために足並みを揃えようと様子を窺い、自分が仲間であるかどうかを確認し続けなければなりません。しかし友達は意見や視座が違っても友達なのです。仏法僧の僧(僧伽/さんが)とはそういう関わりのことをいうのではないでしょうか。
互いの事情をくみ取ることも大切ですが、仏様のはたらきの中で、互いに声を掛け合って、何が本当で、何が正しいのかを共に考え歩む友達の集まりが僧伽なのです。
我々の生活するこの娑婆は、堪忍土(かんにんど)と呼ばれます。縁によって自分の意思とは関係なく様々なことが起き、その一つひとつを引き受けていかざるを得ないのです。気が付いたらこの条件で生まれ落ちており、どちらに向かって生きていけばいいのかわからないけれども走らざるを得ない人生において、自分の意思や信仰心だけを頼るのではなく、共に教えに導かれて友達(僧伽)に背中を押されるようにして歩む、そんな関わりを頼もしく感じます。
2024年も長源寺では法要や法座を多数予定しております。
皆様と一緒にお念仏申し、共に教えにわが身を聞き、語り合う時間を大切にして参りたいと思います。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
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お寺の一年を締めくくると同時に、一年のはじまりでもある行事。
このご案内をもって今年の「遊煩悩林」もつぶやき納めになりますでしょうか。
「除夜の鐘」と「修正会」、いちおう時間設定は区切っておりますが。
かつては、除夜の鐘が終わってからの修正会。
鐘楼にて鐘を撞く順番を待つ人がいなくなるまで。
からの修正会。
時には1:30からだったり2:00からだったり。
最後までお参りくださるのは鐘を撞いてくださった方の1〜2割の方々。
さて、近年はご参詣の皆さん鐘撞きの合間に境内の火を囲みながらスマホを片手に新年のカウントダウン。
スマホのそれがそれになった瞬間「おめでとうございまーす」と。
今年は「アレ」でしたが、来年は「ソレ」か?などと。
獅子吼の余韻の中で、つまり「ごぉーーーん」の「ーーー」の響きの中に、終わりとはじまりが繋がっているところに「除夜の鐘」の醍醐味はあるのかと思ったりしておりますが。
「終わり」と「はじまり」の混然一体化。
ならば。
境内に鐘の音が響いている最中に、堂内では修正会が同時的に勤まっているという演出もありか、という時間設定になっております。
夜半の鐘の音を仏の声と聞くか、騒音と聞くか、難しい時代社会に生きていることを実感しつつ、私はこのように聞こえた、このように聞かせていただいたということが何かあれば。
私はこの年に何を聞いてきたのか。
これまで何を聞いて生きてきたのか。
また明くる年に何を聞こうとしているのか。
憶えば自分の都合に合う聞き方しかしていないし、仏の獅子吼さえ自分の都合次第。
そのご指摘だけは聞こえている。
それで?
どうなんだということがないまま。
という締まりのないつぶやきに今年もお付き合いくださりありがとうございました。
来年も落とし所のみえないつぶやきをよろしくお願いします。
拝
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お寺の一年を締めくくると同時に、一年のはじまりでもある行事。
このご案内をもって今年の「遊煩悩林」もつぶやき納めになりますでしょうか。
「除夜の鐘」と「修正会」、いちおう時間設定は区切っておりますが。
かつては、除夜の鐘が終わってからの修正会。
鐘楼にて鐘を撞く順番を待つ人がいなくなるまで。
からの修正会。
時には1:30からだったり2:00からだったり。
最後までお参りくださるのは鐘を撞いてくださった方の1〜2割の方々。
さて、近年はご参詣の皆さん鐘撞きの合間に境内の火を囲みながらスマホを片手に新年のカウントダウン。
スマホのそれがそれになった瞬間「おめでとうございまーす」と。
今年は「アレ」でしたが、来年は「ソレ」か?などと。
獅子吼の余韻の中で、つまり「ごぉーーーん」の「ーーー」の響きの中に、終わりとはじまりが繋がっているところに「除夜の鐘」の醍醐味はあるのかと思ったりしておりますが。
「終わり」と「はじまり」の混然一体化。
ならば。
境内に鐘の音が響いている最中に、堂内では修正会が同時的に勤まっているという演出もありか、という時間設定になっております。
夜半の鐘の音を仏の声と聞くか、騒音と聞くか、難しい時代社会に生きていることを実感しつつ、私はこのように聞こえた、このように聞かせていただいたということが何かあれば。
私はこの年に何を聞いてきたのか。
これまで何を聞いて生きてきたのか。
また明くる年に何を聞こうとしているのか。
憶えば自分の都合に合う聞き方しかしていないし、仏の獅子吼さえ自分の都合次第。
そのご指摘だけは聞こえている。
それで?
どうなんだということがないまま。
という締まりのないつぶやきに今年もお付き合いくださりありがとうございました。
来年も落とし所のみえないつぶやきをよろしくお願いします。
拝
]]>本堂にて一緒に正信偈をお勤めさせていただきます。
コロナ以降、久しぶりにみんなでお参りできる修正会です。
どなた様もマスク着用の上、お参りくださいますようご案内申し上げます。
*ただし喉が痛い、体調が悪いと感じたら御控えください。
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私たちは日ごろ、お内仏(お仏壇)やお寺の仏前で、手を合わせて「なむあみだぶつ」と、お念仏することを両親や祖父母から教えられてきました。
しかしながら、ほとけさまに向かってお念仏をするという行為が、この私にとって果たしてどういう意味を持つのか、自分の人生においてお念仏をするということがいったいどういうことなのか、なかなか確かめることもなく過ごしているのではないでしょうか。
決して思いどおりにならない現実を生きる中で、私たちにとってほんとうに大切なこと(尊いこと)は何でしょうか。
両親や祖父母が大切にしてきたことは何だったのでしょう。
私たちが何に対して手を合わせ、何を拝んでいるのかということを、ともに膝を突き合わせて確かめ合いたいと思います。
皆さまのご参加をお待ちしております。
『なむあみだぶつと私の人生講座』
主催 真宗大谷派(東本願寺)三重教区南勢1組教化委員会
「呼びかけ文」から
2024年2月から半年間、南勢地区のお寺さん方と合同で「なむあみだぶつと私の人生講座」を開講します。
この講座は、仏教と浄土真宗の基本的な教えについて学ぶ連続講座です。
「仏教」とは?「浄土真宗」って?「お経」には何が書かれているの?「南無阿弥陀仏」ってどういう意味?などなど、皆さんの疑問について一緒に考えていきたいと思います。
ご門徒の皆さまには、ご案内をお送りしますのでぜひご検討ください。
参加者多数の場合、抽選とさせていただきます。
詳細についてはお寺にお尋ねください。
Events
真宗大谷派光明山常照寺のウェブサイト
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私たちは日ごろ、お内仏(お仏壇)やお寺の仏前で、手を合わせて「なむあみだぶつ」と、お念仏することを両親や祖父母から教えられてきました。
しかしながら、ほとけさまに向かってお念仏をするという行為が、この私にとって果たしてどういう意味を持つのか、自分の人生においてお念仏をするということがいったいどういうことなのか、なかなか確かめることもなく過ごしているのではないでしょうか。
決して思いどおりにならない現実を生きる中で、私たちにとってほんとうに大切なこと(尊いこと)は何でしょうか。
両親や祖父母が大切にしてきたことは何だったのでしょう。
私たちが何に対して手を合わせ、何を拝んでいるのかということを、ともに膝を突き合わせて確かめ合いたいと思います。
皆さまのご参加をお待ちしております。
『なむあみだぶつと私の人生講座』
主催 真宗大谷派(東本願寺)三重教区南勢1組教化委員会
「呼びかけ文」から
2024年2月から半年間、南勢地区のお寺さん方と合同で「なむあみだぶつと私の人生講座」を開講します。
この講座は、仏教と浄土真宗の基本的な教えについて学ぶ連続講座です。
「仏教」とは?「浄土真宗」って?「お経」には何が書かれているの?「南無阿弥陀仏」ってどういう意味?などなど、皆さんの疑問について一緒に考えていきたいと思います。
ご門徒の皆さまには、ご案内をお送りしますのでぜひご検討ください。
参加者多数の場合、抽選とさせていただきます。
詳細についてはお寺にお尋ねください。
Events
真宗大谷派光明山常照寺のウェブサイト
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今回、研修をはじめて行ったとのことですが、
午後は前進座の『花こぶし』を観劇されました。
]]>すでに十月二十四日に定願寺では報恩講を勤めていますが、今月は報恩講月ということもあって本山報恩講の日程の間、当定願寺でも郡氏のお稽古を兼ねたお勤めを厳修いたします。もし良ければご参拝ください。
日時 十一月二十一日より二十八日 午前八時十五分ごろより準備、準備後法要開始
式次第
十一月二十一日 (初逮夜)
先 出仕
次 総礼
次 文類正信偈 真四句目下
次 念仏讃 淘五
和讃 弥陀成仏のこのかたは 六首
五遍返
次 回向 我說彼尊功德事
次 総礼
次 退出
一 御文 大阪建立 四ー十五
十一月二十二日(初日中)
先 出仕
次 総礼
次 正信偈 真四句目下
次 念仏讃 淘五
和讃 光明月日に勝過して 三首
次 回向 願以此功徳
次 総礼
次 退出
十一月二十三日(中日逮夜)
先 出仕
次 総礼
次 文類正信偈 行四句目下
次 念仏讃 淘五
和讃 十方微塵世界の 五首
弥陀の名号となへつつ 六首目
五遍返
次 回向 我說彼尊功德事
次 総礼
次 退出
一 御文 中古以来 四ー五
十一月二十四日(中日晨朝)
先 出仕
次 総礼
次 正信偈 中読
次 念仏讃 淘五
和讃 本師竜樹菩薩は 六首
五遍返
次 回向 世尊我一心
次 総礼
次 退出
一 御文 三ヶ条 四ー六
十一月二十五日(中日日中)
先 出仕
次 総礼
次 正信偈 行四句目下
次 念仏讃 淘五
和讃 生死の苦海ほとりなし 四首
次 回向 願以此功徳
次 総礼
次 退出
十一月二十六日(結願逮夜)
先 出仕
次 総礼
次 文類正信偈 真四句目下
次 念仏讃 淘五
和讃 五十六億七千万 六首
次 回向 我說彼尊功德事
次 総礼
次 退出
一 御文 毎年不欠 三ー十一
十一月二十七日(結願晨朝)
先 出仕
次 総礼
次 正信偈 真読
次 念仏讃 淘五
和讃 南無阿弥陀仏の回向の 六首
五遍返
次 回向 世尊我一心
次 総礼
次 退出
一 御文 鸞聖人 三ー九
十一月二十八日(結願日中)
先 出仕
次 総礼
次 正信偈 真四句目下
次 念仏讃 淘五
和讃 弥陀大悲の誓願を 六首
次 回向 願以此功徳
次 総礼
次 退出
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ご恩を無駄にせぬことである。小山法城
ずいぶんと「掲示板のことば」を更新できないままでいます。
役割も環境も変わって数ヶ月が経ちますが、まだまだ毎日戸惑うことばかりで、思うより早く過ぎ去る時間の中で焦る気持ちだけが取り残されているように感じています。
坊守が正社員になってからは、毎日遅くまで仕事をするようになった坊守に代わって、朝食作りは私の担当でした。
昼食と夕食は坊守。いつもおいしいごはんを作ってくれます。でも外食するとなるとお肉やお寿司を好んで食べ、唐揚げやポテトサラダなども好んで注文していました。
ところが外食が多くなった最近、以前はあまり注文しなかった焼き魚を注文したり、何かの煮物を注文したりするのです。
「今享受しているご恩というのは失ってからしか本当にはわからない」とは九州の伊藤元氏のお言葉です。しばらくの辛抱とはいえ、今まさに家族の恩が身にしみています。
人生で受けるご恩というのは本当に沢山あります。
両親の恩、祖父母の恩、学校や部活動(クラブ)の先生も恩師と呼びますね。他にも地域で受けるご恩もそうですが、大抵が「先輩」からのご恩であるように思います。けれども私たちは生きる上で、子の恩、孫の恩、後輩の恩など実は先輩後輩関係なく縁ある方々のご恩を受け続けて存在しているように思います。
気がついているご恩以上に気がついていないご恩もたくさんあるはずですが、悲しいことに鈍い私は伊藤元氏のお言葉通り失ったり、離れたりするまではご縁を良縁悪縁と都合で計ってしまいがちです。特に関係性が近ければ近いほどです。
そんな私だからこそ「振り返る時間」がとても大切なのだと思います。
誰かを振り返っている時間は、実はその方と一緒にいる時間でもあるのです。
折に触れて振り返ることで、当時はわからなかったことに気が付き、愚かにも気が付いていなかった自分と出遇い、そんな自分と関わりを続けてくれていた「その方」と出遇い直しができるのです。
その方が今生きていらっしゃっても、お亡くなりになっていても、私たちは出会った以上、その方からの影響を受けなくなることはないのです。
改めて「ご恩」と報(しら)されることで自分の在り方に悲しみをおぼえ、賜ったご恩に報いていこうとする生活がはじまるのです。
そしてご恩に対して抱く「感謝」とは謝意を感ずると書くように、「ごめんね」と「ありがとう」が同時のものなのです。
今年も報恩講をご縁に参詣し、共にお念仏申し教えを聞き、悩み多き宗祖90年のご苦労を振り返り、私にまで伝え続けてくださった先達のご苦労をも振り返ることで、全てが私と無関係ではない大事な「ご恩」であったと報(しら)される。そこからご恩に報(むく)いていこうとする生活がはじまることが「ご恩を無駄にしない」ということなのだと思います。ぜひお参りください。
報恩講
◎11月11日(土)
13時30分 逮夜
御俗姓 大阪府堺市 光照寺 日野廣宣師
ご法話 三重県菰野町 金蔵寺 訓覇 浩師 2席
引き続き
御伝鈔 住職
お勤め
ご法話 三重県菰野町 金蔵寺 訓覇 浩師 1席
◎11月12日(日)
9時 晨朝兼日中
ご法話 三重県菰野町 金蔵寺 訓覇 浩師 1席
秋季永代経
13時30分
ご法話 三重県菰野町 金蔵寺 訓覇 浩師 1席
住職挨拶
以 上
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ずいぶんと寒くなってまいりました。皆様いかがお過ごしでしょうか。さて、この度の法要は浄土真宗の拠り所となっている経典『浄土三部経』が読誦されます。
永代経法要は、数多ある釈尊の説法の中でも「浄土」について説かれた経典を拠り所とし、導かれて生きられた先達を訪ねつつ、私たちより続く未来の仏法者への道をつくる法要でもあります。
この度、厳修される永代経とは、まさに「お釈迦さまの報恩講」ともいえる真宗肝要の法要の一つです。どうぞ、そのお経に「念仏して生きる」人生の深い意義を共に訪ねてまいりましょう。有縁の方々を誘いあって参詣下さいますよう、ご案内いたします。
正信偈のお勤めをし、紙芝居やブットン君と一緒にあそんだりしました。本当に楽しい時間となりました。来年も開催予定ですので是非遊びに来てください!!
24日は報恩講法要を厳修致しました。
9月に入りコロナに感染しどんどん悪化した結果、肺炎を患い重傷化しまして、入院をしていましたが、この報恩講を目標にリハビリ等をしながら体調を整えてきました。ご門徒の方には、法務の件など大変ご迷惑をおかけし、また、ご心配頂きました。報恩講法要では従来通りのお勤めをすることができ、すっかり住職も元気になっています。12月の中旬まで報恩講が各寺院で行われ、また週末は法事を受けていたりと大変忙しくさせていただていますが今まで通り元気にすごしていますのでどうかご安心ください。また月のお参りでお会いできることを楽しみにしています。
合掌
]]>10月23日 午後6時より 子ども報恩講(子ども会)を開催します。
地域の小学6年生までの方でしたらどなたでもご参加いただけます。沢山の参加をお待ちしています。
10月24日午後2時より報恩講法要を厳修致します。
定願寺の門信徒の方に加えて御法話や興味のある方は是非ご参詣ください。
皆様のご参詣を心よりお待ちしています。合掌
]]>「ぼーとして生きてるんじゃないよ」とチコちゃんに怒られそうです。
5歳のチコちゃん曰く、
「大人になると時間の流れが早く感じるのはなぜだろう?」
その答えは
「キラキラしていない。生活の中に感動がない」からなのだそうです。
・・・・・・確かに・・・・・
毎日同じ事の繰り返しで、日常に感動がない。子どもを見ているとまさにそのことがわかります。
ということで、
暑さ寒さも彼岸まで。あっという間にお彼岸のご案内です。
人の世の悲しみ深く知る頃は
いよくみのり法の尊かりけり 金子 大栄『くずかご』より
ある方が私にこう仰いました。
「これまで家族の為に他人を蹴落としてでも、なり振り構わず働いてきました。しかし定年を迎えた今、これまでの自分を振り返ってみると、私の人生これでよかったのかと思います。そう考えると、「寺に参れ、聞法せよ」と言っていた親の気持ちが今になって分かるような気がします。」
まさに『時機純熟』、仏法のご縁が熟したのでしょう。人の世の悲しみを知った今こそ、尊き教えに出遇う無二のご縁ではないでしょうか。
実りおおき聞法の季節です。みなさま有縁の方を誘って、どうぞお参詣ください。
法要の参詣は宗旨・ご先祖の有無に関係なく、どなたが何回お参りされてもけっこうです。特に次世代の方々にお勧めください。
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スタッフあわせて総勢80名ほどの人が集まりました。賑々しく行われました。
萬行寺からは4名の子が参加。お勤めの導師を務めました。できればもう少し日曜学校の子たちを誘って参加したかったと後で思いました。参加した子は大変楽しかったと言って帰ってきました。
これだけ大人数の児童大会は久しぶりです。長崎教区は現在3つの地区に分かれています。その3つの地区が夏になるとそれぞれの場所で児童大会を盛大に開きます。これが一つの伝統になっています。市内を中心としてた我々第1ブロックも夏になると子どもたちが集まって賑々しく勤めてきました。昨今はコロナウイルスの感染拡大によって自粛をしていましたが、ようやく開催することができました。
ここ長崎教会(長崎教務支所)は旧長崎教区の教務所として長年にわたって教区の活動拠点として長い間、中心を担ってきました。しかし2020年7月1日から教区が改変されたことにより、長崎は九州教区長崎組と変わりました。その後当面の間は長崎教務所は『長崎教務支所』と改称して残されることになりました。
敷地内には「非核非戦の碑」があります。その中には1945年8月9日11時2分、長崎上空に飛来したB29「ボックスカー」より投下された一発の原子爆弾によって亡くなられた国籍も、出身地も、名前も、年齢も、性別も、まったく分からない1万体、または2万体といわる数のお骨が収められています。
長崎の原子爆弾による死者は、約15万人とも言われ、その人数と惨状からいかに原爆の被害が甚大であったかが分かります。
累々と横たわる亡骸の多くは荼毘に付されたそうですが、長らく野ざらしになったものもあったり、あるいは荼毘には付されましたが、お骨の状態で放置されていたものも多くあったのだそうです。そして、原爆投下の翌年から長崎の御門徒がたがお骨を収集され、長崎教会に集められました。その後もその噂を聞きつけた人などからお骨が届けられここに納められたのだそうです。
今回の児童大会は、長崎教区が大切にしてきた非核非戦ということを子どもたちに少しでも知ってもらえたらと思って企画しました。碑の中に収まった遺骨や遺品などを実際に見てもらい、原爆によって亡くなった人が本当にいたんだと実感してもらえるようなことがあれば良いと思いました。
お昼は流しそうめん。前日から準備したかいがあり、計算通りうまく行ったそうです。会全体としてはうまく行ったようですが、まだまだ問題があったように感じます。9月に入ってから反省会がありますので、その時までに反省点をまとめていこうかと思っています。
スタッフの皆様、大変お疲れ様でした。
]]>まずは勤行。その後ご住職の仏さまのお話がありました。
その後は近くにある「つがねおとしの滝」に行って水遊びを楽しみました。気候もよく、子どもたちが遊べるほどの滝でとても気持ちが良かったと大好評でした。
滝で水遊びをした後はお寺にかえって、お昼の美味しいカレーをいただきました。たくさん遊んだ後のカレーはとても「美味しかった」とまた大好評。午後はちょっとだけ友だちと仲良くなるためにゲームをしました。これも萬行寺と真光寺の子どもたちが混ざり合って楽しんでいました。普段学校では友だちと遊ぶのが苦手な子もいました。ここの日曜学校に来流ようになって、自分の居場所が見つかったのでしょうか、この日も積極的に質問などをして楽しんでいる様子を見てホッとすることもありました。
以前の予定では来年の夏は萬行寺で行う予定です。しかし雪浦が好評だったので来年はひょっとしたら雪浦にまたお邪魔するかもしれません。日曜学校は毎年子どもの入れ替わりがありますので、同じ子が来るとも限りませんが、また行きたいと楽しみにしてくれるのはありがたいですね。中学生になってもきてください。雪浦の子たちも以前の萬行寺のお泊まり会に来てくれていた子もいました。以前のお泊まり会を覚えていてくれて嬉しかったです。子どもたちの「また行きたい」という声はなんと言っても続ける原動力になります。
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お寺の子ども会は継続し続けることがその活動の命です。その原動力となるのは、子どもたちの手をあわせる姿でしょう。その中で子どもたちを楽しませることは忘れてはなりませんが、それだけになってしまったら、お寺の子ども会にはならないでしょう。そこに仏の教に基づいた人間教育が大変なことだと感じます。しかし、これが一番難しいと感じます。
]]>聞きがたくして すでに聞くことを得たり 教行信証 総序
数ヶ月前にご法事で伺ったお家でのことです。
そこでは仏事があると、決まって床の間に1935(昭和10)年に還浄されたお祖父様がお書きになったというお軸をお掛けになります。
普段と変わらぬお参り中の何気ない会話の中で、「おじいさんは写真が嫌いだと言って、この軸をわしやと思えと遺言されたんです」とお話しくださって、途端にお軸の見え方が変わりました。
そこには「極重悪人唯稱佛」と書かれていて、左上に小さく昭和乙亥(昭和10年のこと)とあり、左下に寳海院浮龜謹書とありました。
このお軸のエピソードをお聞きするまではあまりしっかり見ていなかったのでしょう。
途端に「寳海院浮龜」というお名前が「盲亀浮木」の譬えをおっしゃっているのではないかと思い至りました。
それは海底に住む目の見えない亀が、100年に1度浮かび上がって海上に顔を出すのですが、そのタイミングで偶然穴の空いた流木が漂ってきて、たまたま亀の頭がその穴から出るというお話です。これは私たちが人間として生まれること、そして仏法に遇うことがいかに稀かということの譬喩でお釈迦様がお話になったそうです。
出会っていても出会えておらず、聞いていても聞けていないのが私の常です。
このお軸にしても、以前からお見かけしているのに、その託された願いには全く気がついていなかったのです。
人のことでもお念仏の教えでも、聞いて理解しているようで、自己流の解釈で誤解し、見落としていることばかりです。
わかっているつもり、知っているつもりで自分の理解の範囲に落とし込んで、落とし込めなかった部分は気にも留めない私が、たまたまのご縁で法に遇い、気付いて(わかって)いなかった自分に出遇った時、「すまなんだなぁ極重悪人であった、気付けてよかった」と感じ、願いをかけ続けてくださる阿弥陀様の呼び声に応じてお念仏申す生活が始まるのだと思います。
だからこそ阿弥陀様から見た私、つまり「極重悪人」(正しいつもりなので罪深い)は阿弥陀様からの呼び声に応えて生きよ「唯稱佛」(ただ念仏を称えよ)と大きく書き示されたのだと思います。
さらに「わしやと思え」と言い遺して、お子さんやお孫さんに細かく説明なさらなかったのは、「自ら教えを聞いて確かめて、お念仏申してほしい」との呼びかけではないのかと受け止めました。
たくさんの方が私たちのところまで仏法を伝えようと阿弥陀様のお手伝いをしてくださっている事実があるのです。見ても聞いても、いつでも気が付かないのはわかっているつもりの私なのです。
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<ご案内>
蝉声天に満てる候、いかがお過ごしでしょうか。 かつて人々は野山の草木や路傍の虫にも手を合わせて生きていました。それはすべてのいのちと共にあるという豊かな生き方であるように思います。ですから当然の如く農繁期が終わると、生きるために仕方なく殺してきた虫たちのいのちを拝むため、お寺で「法要」を勤めてきたのです。
一方、私たちの生活は文明の発達によって格段に便利になりました。しかし、かつてのような時代とは決定的に何かが違うと感じます。
夏の一時、有縁の方々を誘ってお寺の法要に参詣下さいますようご案申し上げます。
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この歎異抄は、仏教書の中でも多く読まれている本だと聞いています。今日では様々な視点から多くの本が出版されているいわば名著です。
宗教の問題を考えるという意味において、歎異抄は現代社会を生きる私たちに大切な視座を与えてくれることでしょう。そこに流れている宗教的普遍性は時代を超えもなお私たちに充分にうったかけるものがあります。
「他力の信心」・「有縁の知識」etc・・・・聞きなれない言葉は多くありますが、親鸞聖人の珠玉の言葉に触れるたびに新しい発見があります。
先月(5月の6回目)は第5章を取り上げました。この章は、前の第4章から続いて問題が続いて展開している点もあり、続けましたが次回の第7回目は第9章を中心に学んでいきたいと考えております。
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善悪の字しりがおは おおそらごとのかたちなり 親鸞聖人
親鸞聖人は「良し悪しの文字をも知らぬ人」は「まことの心」で、「善悪の字しりがお」つまり「何事もそれなりの見解をお持ちの方」は、「おおそらごと(大嘘言)」であるとおっしゃいます。私の常識とは全く逆ですが、実はここがとても大切だと思います。
私たちは日々多くの物事を見聞きし経験します。そのことで様々なことを自分なりに理解し、判断するようになります。
わかるとは「分ける」と書くように、何事も自分の理解の「枠」に分類することで、一応「解った」ことにしていくのです。ですから、その「枠」が多いと「答え」が増えたようでとても便利です。そして分類方法である「枠」が似ている人とは意見も合いますが、「枠」が異なる人とは合わないことがよくあります。
けれども、その「枠」は経験によって大きさや形が変化し更新されますので、人間関係も日々変化します。
だから「枠」は「惑」に通ずると教わりました。自分の判断、分類に迷いがないことを「惑」というのです。
道を間違っていても「迷っている」と気が付かない限り、立ち止まって地図を確かめることがないのと同じで、道を求め、教えに問い尋ねることを忘れるのです。
近年、何事もじっくり向き合って取り組んだり、何度も何度も考えをめぐらせたりすることよりも「わかりやすいかどうか」「できるかどうか」が重視される傾向にあるように思います。どれほど大切に長い間伝承されてきた御聖教(ご法話)でも儀式でも「難しいことはダメなこと」「やったことがない、できないものはダメなこと」なのです。「楽・わかりやすい」が重視され、大体主語は「私が」ではなく「みんなが」です。
人間の要請に応える宗教と人間そのものを明らかにする宗教との峻別が明瞭にならないと宗教が曖昧になる。とは廣瀬杲氏の言葉です。
仏教は人間そのものを明らかにする教えだからこそ、宗祖はこのご和讃をお詠みになったのだと思います。
比叡山でのご修行に励まれた努力や苦労も手柄にして誇り、納得した答えを掴む「枠」を生み、その「枠」に縛られる歩みにしかならない。そういうご自身の姿をごまかさずに受け止められた深い悲しみのご和讃なのでしょう。
そしてだからこそ法然上人に教えられた「南無阿弥陀仏」と阿弥陀さんの呼び声に応えていく道に喜び、自分の善悪・好悪ではなく縁のあったこの道を大切に歩まれたのだと思います。
言わば、自ら囚われ苦しみ悩む「惑」からの衆生解放が法蔵菩薩の誓願(本願)でしょう。
なのに、どんなに枠を破られても必ず新たな枠(惑)を生み出す私なのです。
だからこそ、たとえ今の自分にわからなくても、目の前の人や物事と丁寧に向き合っていこうとする「しらぬ人」を忘れぬ歩みを「愚禿」と名告られたのではないかと思います。
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